仕入れ担当の森田です。
先日、映画「洗骨」を観ました。
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洗骨とは沖縄の島で代々伝わる風葬の儀式です。
死者をお墓(映画の中では洞窟のようなところ)に棺桶のまま入れておき、4年経ったところでもう一度外に出して棺桶のフタを開けます。
そして、そのお骨をひとつひとつ取り出し、みんなで洗い清め、またお墓に戻します。
一見するととてもグロテスクな行為に思いがちですが、実際はとても神聖な儀式だと思います。
これを一族みんなで行う風習はいいものだなあと感じます。
さて、ストーリーはネタバレになるので書きませんが、ここに埋め込まれているストーリーは神話と同じ、なぜ人間が死者を大切に扱うのか(葬るのか)が伝わってきます。そんな映画に私は感じました。
この映画を観て、数年前に玄侑宗久さんが雑誌のインタビューにお答えされていた記事を思い出しましたので、その一部を以下に引用します。
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記者:直葬や散骨、樹木葬など葬儀の簡略化が進んでいますが、それは自分の死後をおろそかにしてしまっているということでしょうか。
玄侑:というよりも、「連続性をおろそかにしてしまっている」ということなんでしょうね。私はこの寺の35代目の住職ですが、34代と36代の「つなぎ」という意識をとても強く持っています。たかがつなぎ、なんですが、されどつなぎ。脈々と伝わってきた連続性が、つなぐことで守られるという安心感を私に与えてくれます。
自分の死後、どういう状態で、どこに埋葬されようが別に構わないというのは、こうした連続性が意識できなくなっているのかも。先祖や地域など、多くの連続性を感じるということを、生き甲斐として感じて欲しい。
さらに言えば、寺や仏像はなぜ尊い存在なのか。それは何百年もの間、寺が修行の場であり、仏に対して僧侶や信者が仏餉(ぶっしょう)をはじめとするお供え物を綿々と続け、手を合わせ続けてきたからに他ならなりません。
連続性さえ大事にすれば、「死後、自分がどこに埋まるのか」ということも含めて、理屈では説明しにくい安心感をもたらしてくれると思います。(日経ビジネス「宗教崩壊」より)
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連続性なのですね。